友情結婚 しなければよかったのか。結婚相手を間違えたのか。(妻目線)
夫とのコミュニケーション(情緒的関係性の構築)が思うようにいかず、結婚生活に期待していたものが全くもって満たされない、満たされる希望も見えてこない現状に、離婚したほうが幸せになれるのでは・・・と考えない日はありません。
当初は、夫との間に重大な価値観の相違があったのではないかと思っていました。
→関連記事 “友情結婚に対する価値観も様々。「温かい家庭」という言葉から思い描く形とは。"
が、ここ最近では、すれ違いの主な要因は、夫タカに発覚した発達障害だと考えています。
→関連記事 “夫のアスペルガー(ASD)疑惑、そして診断。"
→関連記事 “セクシャルマイノリティと発達障害"
タカ自身も悪気があってやっていることではない。自らもたくさん悩み、結婚生活を良くしていこうと努力してくれていることは頭では理解していながらも、心が受けるダメージのほうが大きく悩ましい日々です。
友情結婚 しないほうがよかったのか?
ただ一方で。
結婚しなければよかった。
とは一概に結論付けることはできません。
婚活中に何名かお会いした中で一緒に暮らすことを想像できた相手はタカだけであったのは事実であるし、婚活を続けていたところでもっと良い人に出会えていたかというと誰にもわからないからです。
今はこんなにも毎日苦しい気持ちでいるけれども、未だに結婚できそうな相手に出会えず独り身でいたら、やはり自分は一生結婚できないかもしれないという絶望感や孤独に苛まれ、もしかしたらそのほうが今より辛い気持ちになっていたかもしれない。
なにより、私は「結婚」がしたかった。
少し古風な(?)考え方を持っているらしい私としては、人生の中で結婚を経験する人のほうが圧倒的に多いこの社会の中で、結婚できない自分=ダメな人間、欠陥があるのかもしれないと考えていた節がありました。
だから、結婚したことで自分で自分を一段認めてあげられたことは紛れもない事実です。
たとえ今後離婚を選んだとしても、「生涯未婚のまま」よりは「一度は結婚を経験した自分」を評価してあげられるような・・・
といいつつ自信はありません😔
一方で。結婚していない人を蔑む感覚は当時も今も全くありません。
独りで一生充実した人生を送れるならその生き方もむしろ羨ましいと。婚姻ステータスで他人は評価しないのに(あくまでそのつもり、ですけれども。。)、自分のことは評価してしまう。
結婚したくてもできないのかな・・・という目で見てしまう人がいない。といえば嘘になりますが・・・👾
ただ、なぜか結婚できない自分、は許してあげられなかった。
基本的には苦手なこともなくしっかり者タイプの自分が、世間一般の人が当たり前にやっていること=結婚 ができない、というのが許せなかったのかなあと思います。
また、苦手や欠点は努力すれば(実際に努力できるかできないかはまた別の話ですが)必ずカバーできる。足りない能力があっても人並みレベルには合わせられると信じている(信じていたい)ところがあります。
「恋愛ができない」ことはどう足掻いても人並みにすらなれないことを察して、自分の信念と現実との乖離に押しつぶされそうでした。
全部自分でできるようになりなさい、一通りのことはできないと恥ずかしい、と育てられた親の影響もある気がします。
実際には真の全てにおいて人並み以上になることはできない、かつなる必要もないことでしょうが、そう信じていたいところがあるのかなと思います。
自認したことで、セクシャリティの面で自分はなにかがおかしいのかもしれないという不安(とも少し違うきがしますが適切な言葉が出てこない・・・)からは多少開放されましたが、未だに自分は(欠陥とは思わないまでも)普通じゃないんだ、というレッテルからは逃れられずにいます。
とにかく「普通でありたい」という欲求、「自分は普通であるはずだ」という思いが人一倍強いのかもしれません。
「結婚したい」だけでなく、もしかしたら「温かい家庭を作りたい」も・・・。
自分にとって、人との関わりあいやコミュニケーションがとても楽しい時間であり、自分に幸せをもたらす重要な要素であることには確信を持っており、「普通でありたい」ことだけが結婚したかった理由ではもちろんないです。
結婚相手を間違えたのか?
何故タカを選んだのかと。何故今こんなにも不満を感じてしまっていることを、結婚前に気づけなかったのかと。考えない日はありません。
この人となら「2人両方の」人生が幸せな方向へ向かうと信じたからこそ結婚したはず。
話し合い冊子は覚えてしまうほど何度も見直しましたし、デートでのやり取り(取っていたメモなども含めて)も思い返したりしました。
でも、当時は会話に違和感はあまり感じなかったと思うのです。
私が婚活マジック(?)的なものにかかっていたのかもしれないし、タカが決死の努力でASDを隠し、これまでの学習結果を使って会話を組み立てていたのかもしれない。
要すれば発達障害をある程度隠してふるまうこともできるよう。。
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ただ、価値観の擦り合わせや普段の生活の仕方などは、感情を入れて話すようなものでもないですし(その考え方いいね!とか、それ面白いね!とか反応するような内容ってあまりない・・・?)、今思えば、今週こんなことがあったよーみたいな話って殆どしていなかった気がします。
週末に会った時も、軽くどこか出かけたりはしても、話の中心は結婚に対する価値観や、育ってきた環境、身の回りのことなど既に答えがある程度存在する内容についての会話になりがち。
こういう類の会話では、今でもあまり違和感は生じなかったりするのです。
いわゆる「普通の(=感情を考慮に入れた)」やりとりができないなんてことは想定していないので、上記のような会話で問題なければ、普段の何気ない会話で問題が発生するなんて思ってもいなかった・・・。
話し合い冊子については以前にも少し触れましたが、タカは「会話を大事にしたい」「温かい家庭を作りたい」などと書いています。
話し合い期間中の数か月の間に、価値観などの言語化情報だけではなく、心理的距離間や、他者への興味の深さを見抜くことができなかった(あまり見ようともしていなかった、そこに問題が生じるとは予想だにしていなかった)自分に対して自責の念しかありませんが、これが現実ということ。