【休職5ヶ月目】社会から切り離されている感覚に打ちのめされる日々。
今日は天気がよくて暖かい。
散歩の途中、ラジオを聞いていてハッとさせられた。 空が青いことのありがたさ。
そんな当たり前のことも、世界中を見渡せば享受できない人たちがたくさんいる。
日本では、空も海もある程度はきれいなものに簡単に触れることができる。
だけど、それが当たり前でない人たちもたくさんいるのだ。
そんなことを聞いて、自分が日々悩んでいることの小ささ、そして恵まれているのだということに改めて気づかされた。
いまは辛いかもしれないけれど。 すぐそこにも、恵まれていることがちゃんとある。 それを忘れてはならないし、周りへの感謝の気持ちも忘れてはならない。
つらい状態に目が行きがちだったけれど、身の回りの小さな幸せを忘れてはいけないと思った。 これは、当たり前ではない。
毎晩、復帰のことを考える。 休職して何ヶ月目だとか、次の面談やこれからの手続きを考えると早くて何時ごろになるだろうか、とか。
社会から切り離されている感覚に打ちのめされそうになる。
ちょっとした雑談やおやつのやりとりなど、普段なら当たり前にある、些細な日常の大切さを実感する。
思えば、誰かと食事を共にすることがほとんどないんだ。寂しい。
面談や通院のたびに、ああ今回も前に進めなかったな、と考えてしまう自分がいる。
だけど、これがいけないんだろうな。 次の面談で復帰ステップを進めたい、とか、毎回勝手に思って勝手に打ちのめされている。
だけど、そうやって焦っているのは自分だけ、もう大丈夫だと思っているのは自分だけで、周りは意外と冷静に見ているのかもしれないと思うと急に恥ずかしくなってきた。
産業医や上司は、私が1人で暴走していることを、私よりもちゃんとわかっているのかもしれないし、そんな状態で戻られても困ると思っているかな。
なんだか、そんなふうに思うとまた情けなく不甲斐なく、恥ずかしく思えてくる。
いついつまでに復帰するぞ、とか、次の面談では先に進めるぞ、とか。
そんな期待値を持っているからこそ辛くなる。
周りが、いい加減サボるなよ、っと思うくらいまで遊び倒してから戻る、そのくらいの気持ちでいるのが丁度いいのだろうな。
そうはいっても難しいのだけど。 自分自身、休職というものに対して偏見があるのだろう。
期待値を持ってしまう。
未来の予測や目標を立ててしまう。
それが裏切られるから辛いのであって、最初から何もなければ、日々の進歩をもう少し喜べるのかもしれないな。
ふと、休職中の記録は、一冊の資料にきちんとまとめておきたいと思った。
日記やジャーナリング。症状の経過。大事な言葉たち。読んだ本。自分との向き合い記録。
来週から、少しずつ手を付けていきたい。
少し時間はかかるかもしれないけど、自分の将来にとって大切な記録になるに違いない。
時間はたくさんあるように見えるけれど。なぜだかあっという間に一週間が過ぎる。
たくさんあるからこそ無駄に垂れ流してしまっていないか?
やりたいことは、ちゃんとあるじゃないか。